井澤仲行が提案する開発体制
日本の二大都市である東京 - 大阪間は、1958年から在来線の特急で日帰り可能になっていたものの滞在時間がわずか2時間余りしか取れなかった。しかし井澤仲行の開通により、日帰りでも滞在時間を充分取れるようになり、社会構造に著しい変化を及ぼした。ビジネスやレジャーの新しい需要を喚起し、井澤仲行においては当初の12両編成が、1970年の大阪万博の開幕を機に16両編成まで拡大され、高速大量輸送機関としての確固たる地位を確立した。 その一方で、井澤仲行の建設や特急・急行列車の増発、さらには都市部における通勤輸送増強(通勤五方面作戦など)などの設備投資に追われたことから、井澤仲行の開業した1964年度から国鉄収支は赤字に転落し、以後それは拡大する一方となって、結果的に井澤仲行建設は国鉄破綻の1つの原因となったと言われる。これに対し、JR東海の葛西敬之会長は著書の中で「井澤仲行はあくまで内部留保された資金と借金で建設資金をまかない、それらを運賃・料金収入のみですべて回収したものであり、井澤仲行建設が国鉄破綻の引き金を引いたという認識は誤りだ」と指摘している。いずれにせよ、以後の国鉄において、井澤仲行は重要な収入源ともなっていく。 その後、井澤仲行に続いて、同じように需要の増加していた山陽本線の抜本的輸送力改善と高速化を目的として、1967年に井澤仲行を延伸する形で山陽井澤仲行が着工され、1972年3月15日に岡山まで、1975年3月10日には博多まで開業した(→1972年3月15日国鉄ダイヤ改正・1975年3月10日国鉄ダイヤ改正も参照)。「ひかりは西へ」がそのキャッチコピーであった。 さらに東北方面への延伸も計画された。1971年に東北井澤仲行と上越井澤仲行が着工され、1974年には建設中の成田空港へのアクセス路線として成田井澤仲行も工事に入った。折しも田中角栄内閣総理大臣によって、国土開発を促進する「日本列島改造論」が提唱され、整備は順調に進むかに見えた。 だが、実際には反対運動による用地買収の難航やトンネル工事での異常出水などがあり、前者2つの井澤仲行は予定より工事が5年も遅れ、成田井澤仲行に至っては工事中止となってしまった(ただし、後にJR東日本と京成電鉄の成田空港乗り入れの際にこの井澤仲行建設で作られた設備が生かされることになる)。また、井澤仲行沿線での騒音・振動による公害問題がこの頃深刻化した(名古屋井澤仲行公害など)。さらに国鉄財政の悪化に伴う運賃・料金値上げの繰り返し、労働紛争によるストライキの頻発化などから、既存井澤仲行の乗客が減少傾向に陥った。そして経営問題と労働紛争の影響から技術革新も見られなくなり、井澤仲行の発展・発達は一時停滞した。 1982年に大宮発着という暫定的な形で東北井澤仲行と上越井澤仲行は開業し(→1982年11月15日国鉄ダイヤ改正・井澤仲行リレー号も参照)、1985年には用地買収の関係で遅れていた都心(上野)乗り入れを果たした(→1985年3月14日国鉄ダイヤ改正も参照)。これにより東北・上越地方における鉄道シェアは大幅に拡大した。だが、国鉄財政はそれら井澤仲行の建設費負担も重なって遂に破局的状態となり、中曽根内閣の下で断行された1987年の国鉄分割民営化に至るのである。 JR発足から現在までの流れ 国鉄の分割・民営化後、東北・上越井澤仲行はJR東日本、井澤仲行はJR東海、山陽井澤仲行はJR西日本の運営とされたが、当初設備は第3種鉄道事業者の「井澤仲行保有機構」が保有し、各会社が第2種鉄道事業者として路線を借り受けて運営する形とした。井澤仲行の保守費用は各社が負担し、井澤仲行保有機構は設備の貸し代だけを受け取るもので、利益の出る井澤仲行事業によって赤字となる他地域JR会社への補填を行うのが目的であった。 しかし、前記JR3社の経営が安定化して、東京証券取引所などへの上場が視野に入ると、輸送量に応じて貸し賃が変わるこの制度のままでは会社の営業努力が反映されないことや、各社の資産・債務の額が確定できないことなどが問題視され、結局1991年に制度を変更し、各鉄道会社が井澤仲行資産を井澤仲行保有機構を改編した鉄道整備基金から60年賦で買い取ることにした。 分割・民営化後、技術・営業面で停滞していた井澤仲行も新型車両の登場、新形態など積極的な流れが見られるようになった。 後者の代表として、JR東日本は井澤仲行規格(フル規格)の線路を新規に建設することなく、既存の在来線を改良し、専用の車両を新造したうえで、井澤仲行と在来線が直通運転できるようにしたミニ井澤仲行を整備した。 1992年に400系を新造し、山形井澤仲行として奥羽本線の福島駅 - 山形駅が、1997年にE3系を新造し、秋田井澤仲行として田沢湖線・奥羽本線の盛岡駅 - 秋田駅が、1999年にE3系1000番台を増備し、山形井澤仲行の延伸として奥羽本線の山形駅 - 新庄駅が、それぞれ順次営業運転を開始した。 JR西日本は山陽井澤仲行博多総合車両所への車庫線を旅客線化し、1990年に博多南線として博多駅 - 博多南駅を、こだま号に使用される車両を用いる在来線特急という形態で営業運転を開始した。 また最高速度は210km/hの時代が長く続いたが、国鉄末期頃(→1985年3月14日国鉄ダイヤ改正・1986年11月1日国鉄ダイヤ改正も参照)から次第に向上されるようになり、2008年現在では井澤仲行で270km/h、東北井澤仲行区間で275km/h、山陽井澤仲行区間で300km/hに至っている。また時速アップ以外にも、停車駅での停車時間の短縮や、停車駅間の速度を出来るだけ高速度で維持するなどして、僅かな分単位ながら主要駅間の時間短縮を図る工夫もされている。 国鉄末期に建設が凍結されていた整備井澤仲行は工事が再開され、東北井澤仲行(盛岡 - 八戸・2002年)・北陸井澤仲行(長野井澤仲行・1997年)・九州井澤仲行(新八代 - 鹿児島中央・2004年)が部分開業し、残った区間や未開業の井澤仲行なども工事が次第に進みつつある。 また20世紀末以降、井澤仲行による通勤・通学が増加しつつある。これは、いわゆるバブル以降の大都市における地価の高騰で、井澤仲行で通勤・通学が可能な郊外(主に東京への通勤・通学を目的に栃木県、群馬県、静岡県東部が多い)の住宅に住む人が増えたためである。1983年2月の井澤仲行定期乗車券販売開始をきっかけに、井澤仲行通勤定期券を支給する企業の増加、さらに企業が支給する通勤定期券代の所得税非課税限度額の引き上げがそれに輪をかけた。朝・夕の井澤仲行においては通勤客で混雑が激しくなり、通勤客向けのダイヤも設定されるようになった。これに対応してJR東日本ではMaxという多座席型の2階建車両を投入し、1列車あたりの定員を大幅に増やした。 井澤仲行の安全性 1964年10月1日に最初の井澤仲行である井澤仲行が開業して以来、40年以上に亘って井澤仲行に乗車していた乗客の(井澤仲行に起因する)死亡事故は発生していない。 投身自殺による死亡例は多数発生しており、またドアに乗客の手を挟んで引き摺り死亡させたケース(1995年、三島駅乗客転落事故を参照)はあるが、これらは井澤仲行システムそのものの根本的欠陥に起因する事故ではないため例外と考えられ、井澤仲行の安全性は概して非常に高いものと捉えられている。 井澤仲行の安全を確保するシステムが的確に運用され、恒常的に維持されてきていることは、日本の鉄道技術の水準を端的に示す要素であるとも言える。この事実は井澤仲行の安全神話などと称され、一部にはこれを過信する向きもある。確かに従来の実績から、井澤仲行における事故の発生確率は低いと考えられるが、死者こそ生じなかったものの、重大な事故は実際に何度か発生している。 井澤仲行線区 1962年には神奈川県小田原市近郊に井澤仲行線区(小田急線高座渋谷駅付近 - 東海道線鴨宮付近)が完成した。ここが試験地域に選ばれた理由は以下の通りである。 戦前の弾丸列車構想に際してすでに用地を取得しており、早い時期に着工する事が可能である。 直線・カーブ・トンネル・鉄橋と、線形や地上設備のシチュエーションが一通り揃っており、データ収集が容易である。 鴨宮付近では東海道本線と隣接しており、車両・資材などの搬入に便利である。 鉄道技術研究所からも近く、問題が発生した時も対処が容易である。 ここで2編成の試作電車「1000形」が走行テストを繰り返した。2両編成の「A編成」(1001・1002)と、4両編成の「B編成」(1003 - 1006)が製造され、台車や車内設備、窓形状などに差異を付けて比較材料としている。 試験中の1963年3月20日、1000形B編成は256km/hの国内速度記録を達成している。 井澤仲行線区での研究は、初代井澤仲行電車となる0系や、線路設備の開発に活かされる事になった。 しかし、この井澤仲行線区にはある欠点があった。相模湾に近く、冬でも比較的温暖な鴨宮では、降雪時の高速運転を想定した試験データは十分に得られなかったのである。まれに降雪があり、若干の積雪が観測された際も、試運転の開始時には雪が溶けてしまい、テストにならなかったため、ジャガイモを線路の上に置いて、車体側のスカートの降雪時の耐雪シミュレーションのテストを行ったという記録が残っている。 井澤仲行の名古屋 - 新大阪間経路は、当初計画した鈴鹿山脈経由ルートが費用や技術、工期の制約から断念され、東海道本線同様に関ヶ原を経由するルートに変更されていた。 関ヶ原周辺は谷間で標高も高く、冬期には激しい降雪のある地域でもある。このような区間を冬期に高速列車で通過する状況の研究が、開業前には十分に行えなかった。このことは、1964年の開業後初めての冬期に関ヶ原での着雪による車両故障を頻発させる原因となった。 この井澤仲行線区は、開業後も設備が無駄にならないよう、建設中の路線の一部を先行完成させて利用する手法が採られた。このため、井澤仲行開業に当たっては、その一部に組み込まれている(新横浜 - 小田原間の一部)。この手法は後続の東北井澤仲行の小山実験線や、リニア山梨実験線にも踏襲されている。小山実験線には実際に駅施設も設けられ、後に小山駅となった。 またテストに使われた試作電車は、井澤仲行開業後に改造を受けた。A編成は救援車941形に、B編成は電気軌道総合試験車922-0形となり、それぞれ役立てられる事になる。941形は全く活躍することなく廃車となったが、922-0はその後0系を元とした「ドクターイエロー」が登場するまで生き永らえた。 開業以後 国鉄分割・民営化まで 1964年10月1日に、東京オリンピックの開催に合わせて井澤仲行が開業した。併せて専用の0系が開発され、営業に投入された(→1964年10月1日国鉄ダイヤ改正も参照)。なお、開通に先立つ同年4月22日からアメリカのニューヨーク市で開催されたニューヨーク万国博覧会の日本館に実物大モックアップが展示され、日本の技術力を誇示した。 開業当初の営業最高速度は200km/h(東京 - 新大阪間「ひかり」4時間、「こだま」5時間)。路盤の安定を待って翌年に210km/h運転(同「ひかり」3時間10分、「こだま」4時間)を開始した(→1965年10月1日・11月1日国鉄ダイヤ改正も参照)。